日本国内で、常時介護(主に毎日 24 時間の介護)を必要とする全身性障害者【1】が、施設や親元を離れ、地域で一人暮らしなどを行うにあたり、その生活に必要な常時介護を保障する制度を求める障害者運動が、結果的に国の施策に影響を与えた過程を説明する。

【1】両手・両足・体幹等に重度の障害のある、脳性麻痺・筋ジストロフィー・頚損
などの障害者を指す。

2  1970 年台~80 年台

70 年台はじめに東京の府中療育センターの入所者が支援者(当初は労働組合や学生など)と共に介護制度の改善を訴え運動を行った。
都庁にテントを張り、そこで脳性まひ者が 2 年間、支援者の介助で暮らした。この運動の過程で、施設を出てアパートを借り、(時には大勢の)無報酬の支援者の介助で1人暮らしを始める脳性まひ者が出た。
当時、全身性障害者が在宅で受けられる介護制度は実質的に無かった。この後に続いて、一人暮らしをする全身性障害者が徐々に増えていった。駅や大学などで支援者募集のチラシを配るなど、障害者が支援者を募集してアパートなどで一人暮らしをする全身性障害者が増えていった。

当時、支援者は無報酬だった。そのため、これに公費で報酬が出るように、厚生省や東京都との交渉が持たれ、73~74 年には国の生活保護(以下「生保」)の他人介護料に、全国の全市町村で受けられる特別基準大臣承認の制度が出来た。東京都では脳性まひ者介護人派遣事業(以下「介護人派遣事業」【2】)が始まる。
いずれの制度も今で言う無資格・未経験者の支援者に介助者としての給与が出るようにした仕組みで、つまり、行政の役割はお金を出すのみで、介助者の確保から、育成・教育・勤務シフトの決定・人事までをも障害者が行う制度だった(本稿ではこれを以下「自薦の制度」、その介助者を「自薦の介助者」と表現する。障害者団体の運動で定着したネーミング)。

最初は月々僅かな金額で、支援者の交通費にも足りないほどだったが、都内の一人暮らし等の全身性障害者が毎年、何度も集まって金額を上げる交渉を継続し、運動に関わる障害者も増えた。
90 年台はじめには 100 人以上の長時間介護の必要な重度障害者が、車いすで都庁や厚生省に何度も集まって交渉を行なった。当時はボランティア不足によるケアの不足で体力が落ち、肺炎等で亡くなる障害者も少なからずおり、命に関わる要望であったため、制度は毎年改善され、どんどん自薦による制度の支給時間と支給される金額が伸びていった。
93 年には、東京都の全市区町村で、毎日 12 時間の介護制度【3】が受けられるようになった。

【2】後に脳性麻痺以外も対象になった。97 年に国のヘルパー制度補助金を使う全
身性障害者介護人派遣サービスに制度改正。
【3】生保の他人介護料大臣承認(全国で受給可能)で毎日 4 時間、自薦の制度で
ある介護人派遣事業(東京都全域で受けられる)で毎日 8 時間、合計で 12 時
間の制度となった。

3 1990年台~2002年度(支援費制度開始前)
(1)全国に介護人派遣事業の運動が広がる 東京の介護人派遣事業の制度化や制度改善の運動を参考に、大阪
でも障害者団体が運動し、87 年1月には大阪市で全身性障害者介護人 派遣事業 4 が始まった。行政内部は障害者が推薦した介助者を市に登 録し、市はその障害者専用の登録ヘルパーとして障害者に介助者を 提供するという建前で処理した。この方法ならホームヘルプ事業の 国庫補助を使うことができた。

【4】毎日 5 時間、障害者が確保し育てた介助者が介助する時間に給与が出る仕組み

大阪市を皮切りに神戸、広島、静岡、熊本の各市などが続き、2002年度には全国 100 以上の市町村で同様の制度が出来た。これは全て各地の障害者による運動の成果である。
90 年台前半はインターネットも一般には普及していなかったため、東京にある全身性障害者の介護保障制度を求める団体(厚労省との交渉のために 80 年台に全国団体を作ったが、本格的に情報提供を始めたのは 90 年台から)の事務所から全国の障害者団体や障害者個人宛てに、制度を作るための交渉ノウハウを掲載した紙媒体の機関紙を毎月実質無料で送ったり、全国各地の障害者に東京の障害者が説明に出向き、手弁当で相談窓口となるフリーダイヤルを東京のスタッフの個人宅にスタッフの自腹で設置したりして、ノウハウを伝えていった。

(2)東京の90年台の話(主に入院中の介護と医療的ケアについて)
東京都の介護人派遣事業(もともとは東京都の単独事業)も、97 年にはホームヘルパーの国庫補助を使う制度に改変し、1 時間あたりの単価がそれまでの 800 円台からヘルパー国庫補助の水準の 1,400 円台(毎日 8 時間)になった。これは都内で一人暮らしする全身性障害者の団体の発案から改正の話し合いが始まり、数年間の細部にわたる話し合いの末、改正案が作られたものである。東京都は障害者団体との毎月の話し合い内容をもって厚労省と協議し、国庫補助事業の制約からできないことを再度障害者団体との協議に持ち帰った。この繰り返しで詳細が決まった。

この過程で、それまでの介護人派遣事業では認めていた、一時入院中の介護【5】については、国として国庫補助はつけられないということになった。そのため一時入院中の介護はこの制度の中で東京都の全額負担で実施し、継続することになった。東京都は国に公式に出す要綱等には入院中介護について記載せず、都と市町村間の内部文書である問答集に「制度改正後も入院中に引き続き利用できる」ことを記載した。

【5】自宅にいつも来ている介助者が入院先に出向き、自宅と同様の介護をすること。全身性障害者は一人ひとり介護方法が極端に異なるので、いくら優秀な病院の看護スタッフであっても、介護方法を障害者に聞いて体得するには時間がかかる。
また、障害者が肺炎等でコミュニケーションが困難な状況では、介護方法を聞くことも難しく、円滑に介護ができなくなってしまう。慣れた介助者が病室でも自宅と同様に 24 時間介護をすることで、障害者の体力低下や生命の危険を防ぎ、入院中の介護不足による死亡を無くすことを目的とした。

この入院中の介護の制度は、2003 年に支援費制度が始まり介護人派遣事業が日常生活支援に変わったことを受けて、一部の市では自立生活センターなどの障害者団体の交渉で、入院中も 24 時間利用できるようになっていった。
厚労省職員は毎年人事異動があるたびに東京の障害者団体に見学に行き、24 時間の介護利用者の自宅見学などを行っていたので、入院中の介護の話も聞いていた。(その後、様々な地方自治体からの要望も増え、2018 年度から重度訪問介護で入院中の介護を認める法改正が行われることになった。)

97 年の東京都介護人派遣事業の改正で、もう一つ重要な点は、吸引、摘便(てきべん)、導尿などの医療的ケアを明文化したことである。これらの介助も、以前から自薦の介助者によって行われていたが、都と市町村間の内部文書である問答集に「制度改正後も医療類似行為が引き続き利用できる」ことを記載した。
介護人派遣事業の自薦介助者が行う吸引、摘便、導尿などは医療行為ではないことを示すため「医療類似行為」と表現し、これらは医療行為ではないという東京都(障害福祉担当部署)の考えを明らかにしたものである。
ここに至るまでに、障害者団体は医師法管轄の厚生省医事課とも話し合い、これらの医療類似行為は医師法に定める医行為であるかどうかは個別具体的な判断となり、その白黒を決められるのは裁判所の決定のみであるが、個々人の置かれている状況によってどちらにもなりうる、いわゆる「グレーゾーン」である、という医事課の公式見解を引き出した。
その後、このグレーゾーンという考え方について継続的な話し合いが持たれ、厚労省医事課の公式見解として現在も続いている。

なお吸引については 2003 年(在宅 ALS 向け)と 2005 年(ALS 以外の全在宅障
害者向け)に、ヘルパーと同意書をかわして実施できるとする通知、いわゆる違法性阻却通知が発出された。また、吸引と経管栄養は、2012 年の法改正で 9 時間の基礎研修と実践研修(3 号研修)を受講することでヘルパー等も実施できるようになった。
なお、ヘルパー等はこの 3 号研修を受講する前であっても、2003 年と 2005 年の通知
(2012 年の法改正時に、障害者団体と厚労省で話し合い、廃止しないこととされた)に基づき、同意書で吸引は行える。3 号研修が年に1~2 回しか開催されない地域もまだ多く、利用者に吸引が必要になってから(もしくは新しいヘルパーが介護に入り始めてから)受講完了まで、タイミングによっては時間がかかる問題があるため従来の通知を廃止しないこととされたのである。

(3)東京での自薦ヘルパー方式~全国へ
2002 年度までのホームヘルパー制度は老人福祉の予算内だったため、老人も障害者も合わせて行われていた。老人福祉の動きとしてはゴールドプラン(1989 年からの 10 年戦略)・新ゴールドプラン(1994年~)が作られ、ヘルパー予算を毎年増やすよう国が音頭を取ったが、自治体はなかなかそれに従わなかった。
東京で運動を進めてきた障害者団体では、生保の他人介護料や都の介護人派遣事業の制度から給与を払っている自分で育てた自薦の介助者を、ホームヘルパー制度による区市町村からの委託先事業所に登録ヘルパーとして登録し、推薦し登録した障害者自身のヘルパーとして来てもらう方法を始めた。運動側は、これを「自薦ヘルパー」と呼んだ。
ヘルパーの支給時間の交渉も毎年行ったが、自薦ヘルパー方式に取り組み始めた 80 年代後半から 90 年代当初は、全国でも先進的だった東京都でも週 18時間というホームヘルパー制度の上限があった【6】。

【6】その後、厚生省は 90 年にホームヘルパーの派遣時間の上限を廃止し、92 年
には全国の自治体に推進した。

東京都内の交渉能力の高い障害者団体は、介護人派遣事業と生保の大臣承認と無償ボランティアを組み合わせて、実際に 24 時間介助者が介助に入っていた、一人暮らしの全身性障害者に「24 時間の介護の必要性」があることについて、市の障害福祉課職員と合意を取り付けていた(必要性が 24 時間であるという合意確認であって、市の予算で 24 時間保障するという意味ではない)。
これらの市の障害福祉担当職員は、東京都がヘルパー制度の上限を週 18 時間としていたため安心して、1 日24 時間介護の必要性を、現場を見て、市の財務担当の許可を得ずに
認めていたのである。ところが 93 年 4 月から東京都がヘルパー制度の上限を撤廃してしまったため、市としても必要性を認めていた以上、ヘルパー制度による 24 時間介護保障を認めざる得なくなってしまった。
このようにして、93 年には都内の 2 市で毎日 12 時間のヘルパー制度による介護保障の決定が出た。これによって、生保他人介護料 4 時間+介護人派遣事業 8 時間+ヘルパー12 時間という 3 つの制度で 24 時間の公的介護保障が日本で初めて 2 つの市で実現した。もちろん、3 制度とも自薦の介助者に給与が出る制度(ヘルパー制度は運用を工夫して実現した)となったので、男性障害者は男性の自薦介助者を使うことができた(当時はどこの地域もヘルパーは女性の仕事だった)。
これで 24 時間 365 日、給与のある仕事として、1人の全身性障害者ごとに数名の自薦の介助者に介護に入ってもらう事ができるようになった。それまでは、1日の半分をボランティアによる介助でまかなうしかなく、学生のボランティアなどを月に20~30人集めないと生きていけなかったため、障害者は必死に大学や駅前でボランティアの募集広告を配っていた。ボランティアでは十分な介護が受けられないので、睡眠時間も確保できず、体力を落として肺炎で亡くなる人もいた。そのような生活がようやく終わった。

このニュースは全国の全身性障害者や障害者団体に伝えられ、自薦ヘルパー方式による同様の交渉が地方でも行われ始めた。東京都内ではその後数年で 24 時間の介護保障を決定した市区がおよそ約半数にまでのぼった。東京の全身性障害者の全国団体は、全国各地の障
害者団体・一人暮らしで困っていた全身性障害者個人に市町村との交渉のノウハウを伝えたことにより、自薦のヘルパー制度、自薦のガイドヘルパー制度(外出の介護制度)、全身性障害者の介護人派遣事業が続々と全国各地で作られた。生活保護の他人介護料大臣承認の利用も各地に申請方法が伝わり【7】、九州や四国でも数年後には4つの制度を合わせて最高で24時間の介護保障が始まった。その他の地域でも6~20時間の介護保障が続々と認められた。

【7】この制度も 90 年台前半までは保護課の公式文書にも存在していなかったため、制度の存在を知らない市町村が障害者の問い合わせに全く取り合わなかったり、申請拒否したりする時期が長かったが、障害者団体の毎年の交渉を受けて厚生省保護課が方針を変え、全国自治体に徐々に周知していった。

4  2000 年度介護保険開始

老人福祉分野では介護保険開始にともない措置方式から契約方式になり、民間の法人の指定事業所を利用者が自由に選べるようになった。
介護保険開始時に介護保険対象になる65歳以上の障害者や40歳以上のALSやリウマチなどの特定疾患患者をどうするか、厚労省老健局等と障害者団体間で何度も話し合いが持たれた。厚労省は当時、新しくできる介護保険のサービスの水準のほうが障害ヘルパー等の支給水準よりも遥かに高いと思っていた。
そこで、障害者団体側はそれまでようやく獲得した 24 時間介助の障害者の生活が、外からの批判などによって奪われないよう、あまり公にしていなかった全国の一人暮らしをする障害者の自薦ヘルパーなど、ヘルパー制度の最高支給実態を公開した。自治体数で全国の 4 分の 1 の市町村で(人口比では全国の3分の1の市町村で)、重度の障害者が、介護保険の要介護5のヘルパー利用可能時間(毎日約3時間)を超える支給量を受けているケースがあった。毎日12時間や24時間の介護を受けている事例も多いことを説明した。

当初の厚労省の案では介護保険対象者は、障害者であっても介護保険の給付が上限で、障害福祉のヘルパー制度利用はできないとする制度設計だったが、全国で長時間介護制度を作ってきた障害者団体による実績の説明の結果、介護保険対象の最重度の全身性障害者は介護保険に障害ヘルパーの制度を上乗せできることになった。
なお、現在では全身性障害者だけでなく、また、障害の程度にかかわらず、障害福祉担当課が必要な介護時間を見積もり、その見積もった時間数から介護保険で提供される訪問介護の時間分を引いた、残りの時間数を障害ヘルパーで支給決定するという方法に改善された。
障害ヘルパー制度は一人暮らしなら時間数が増える仕組みなので、一人暮らしや家族の介護力がない世帯などならば、障害支援区分が軽度の 1~3 でも、障害ヘルパー制度より家族同居前提のサービス量である介護保険の水準が低いケースが多くなるが、これは当然のことである。
現在は障害ヘルパー制度の上乗せが公式ルールとなって、厚労省から自治体向けの通知や支給決定マニュアルにも明記されている。しかし、一部の政令指定都市等が介護保険利用者への障害ヘルパー支給を区分6以上に限定するなど、独自の制限を設けており、未だ厚労省のルールに従っていない自治体があるため、各地で交渉が続いている。

5  2003 年度支援費制度開始

2003 年から、障害福祉でも介護保険法と同じ指定事業所方式が始まった。全国で制度改善運動を続けてきた、一人暮らしで 24 時間の介護が必要な者などの障害者団体が、NPO 法人などを作り、ホームヘルパーの指定事業所を設立した。その多くは、入所施設や筋ジス病院等や親元からの自立生活支援を行なってきた団体(自立生活センター=CIL)である。人工呼吸器利用者なども含め、24 時間の介護の必要な障害者からの相談を受け、民間アパートで一人暮らしできる支援を行ってきた。
2002 年以前から何十年も手弁当でこの運動を行なってきた団体が多いが、2003 年以降、職員をきちんと雇い、より組織的に自立支援活動ができるようになり、より重度な障害者を支えることができるようになったものである。

全身性障害者の介護保障制度を作ってきた全国団体【8】は、全国自立生活センター協議会などの他の障害者団体数団体と連携し、全国にこのような重度の障害者の自立生活支援を本格的に行うNPO法人の事業所を 150 箇所以上立ち上げて、支援した。特に過疎の県ではそれまで 24 時間などの長時間介護の必要な障害者を自立支援できるような組織的な自立支援運動がなかった所も多いが、このときに全ての都道府県に同様の運動体が立ち上がった。それらの団体は、例えば、地域の施設の最重度の障害者でも、その人が一人暮らしの地域生活を希望した場合、支援を行なっている。
具体的には、障害者自身がまず変わるエンパワメント方式の支援を行っており、自立生活プログラムやピアカウンセリング【9】など集団プログラムや、個人の必要性に合わせた何種類かの個別プログラムなどを何度も受講してもらい、そのあとで介助サービスを受ける方法を取っている。障害者が環境改善に責任を持つことを学ばないと、ただヘルパーを 24 時間提供しても、多くの場合、ヘルパーに対して気に入らないことがあると、障害者がすべてのヘルパーを辞めさせてしまい、その結果一人暮らしを続けられず、施設に逆戻りになってしまうためである。

【8】この頃には全国障害者介護保障協議会という名前になっている。役員は北海
道から九州までいるが、各自が地元で自立生活センターを作り自立支援活動を
手弁当で行ってきた。
【9】一人暮らし等で長時間介助を利用している先輩の障害者で、これらの講座の
講師の教育を受けた者によるプログラム。

東京都は、支援費制度開始に当たり、自薦ヘルパーの支払い単価は1 時間 1,400 円台だった全身性障害者介護人派遣サービスが、そのまま介護保険と同じ 1 時間 4,000 円台の身体介護に変わった場合、公費から保障しきれなくなることを危惧したため、別に安価な制度が作れないかと厚生省に相談した。同時に東京の障害者団体の一部(自立生活センター等)も、単価は安くても、使いやすい見守り待機をサービス内容として認めることを含んだ制度を厚労省に求めた。
その話し合いの結果、連続長時間使用を前提とし、単価は身体介護の 4 割ほどの日常生活支援(後の重度訪問介護)というヘルパー制度が全身性障害者専用に作られた。ヘルパー研修は障害者個々人が仕事をしながら教えていく方式(OJT=On the Job Training)を基本とし、入り口として 20 時間のみの研修【10】を受講する制度となった。

【10】東京都内の障害者団体である自立生活センターで行われていた、ヘルパー向けの基本理念や自宅見学などの初回研修が20時間であったので、それをそのまま研修制度にした。

全身性障害者が夜も年末年始も働ける能力の有る人材を確保するためには、分母の大きな「無資格かつ未経験者」を対象に求人して雇用するしかない。20 時間の研修は採用時研修のようなものであって、その後、OJT で介護に入りながら長い時間をかけて個々人ごとに介護方法が違う全身性障害者の個別の介護方法に慣れていくという仕組みの制度設計となっている。
たとえば週 40 時間勤務の常勤ヘルパーは、頚損・筋ジス・脳性麻痺・ALS など障害者生活スタイルの異なる 4 人程度の障害者の介助を、1 日 10 時間ずつ行って、週 4 日勤務するような形が多い。しかし、個々の介護は障害者ごとに異なり、完璧な介護ができるまでに1年かかる場合もある。具体的には、言語障害を完全に聞き取れること、体位交換を体の変形や体調に合わせて調整できること、様々な医療的ケアを完全にスムーズにできるようになることなどにおいて、全身性障害者の場合は技術向上に時間を要する。
OJT 前提の制度設計で、公的な資格としては 20 時間研修(座学 1 日+障害者の自宅で介護見学を 1 日など、最短 2 日間で受講できる)でヘルパーとして、最初は先輩と 2 名で介護に入る仕組みにすることで、全身性障害者の生活が守られた。

2003 年の制度改正に合わせて、それまで障害者による交渉は活発に行われていたのにも関わらず、24 時間の介護の実施が遅れていた政令指定都市など人口の大きな市で、日常生活支援で毎日 24 時間など、24 時間介護保障が数多く始まった。その後も 24 時間保障を始める市町村は、毎年、全国で順調に増えている。

2003 年の支援費制度開始前にちょっとした騒動があった。ヘルパー利用が大幅に増えることが見込まれたため、厚労省のある課長(いわゆるキャリアと呼ばれる人たちで、官僚としての経験を積むために様々な部署を人事異動で回るため、障害者の現場をよくわかっていない人もいた)が「ヘルパーの 1 日上限を 4 時間にしたい」と言い出した。
全国のほぼすべての障害者団体が集結し、厚労省の 1 階や大臣室前、建物の周りを障害者で埋めつくした。全国の長時間介護利用障害者や、それを心から心配する友人の障害者や、障害者団体によって真冬にも関わらず 2 ヶ月ほど厚労省が取り囲まれた。これはマスコミにも大きく報道され、与野党の政治家や閣僚も動き、結果、4 時間上限は撤回され、その課長は人事異動となったと聞いている。
(なお、国庫負担基準という(個々人の上限ではなく)市町村と国の清算基準(国の負担額の総額の上限基準)が訪問系サービスに設けられ、その後、上限基準を超える市町村への補助事業が作られたが、中規模自治体は補助率が落ち、大規模自治体には補助がないなど、重度障害者を抱える市町村の負担が重たいという問題は未だ完全な解決には至っていない)。

6  2006 年度自立支援法開始~現状

自立支援法開始前の障害者団体と厚労省の話し合いで、初めて日常生活支援は 24 時間の利用者を想定した制度(8 時間勤務のヘルパーが 3 交代で 24 時間勤務することを前提とした単価の構成11)になった。制度の名前も、重度訪問介護という名前になった。単価は下がったが、そのかわり厚労省としては初めて、24 時間の連続利用を前提として制度設計したヘルパー制度となった。

【11】1 人の重度障害者に対し 8 時間毎の3交代のヘルパーで 24 時間の介護をすることを想定した制度で、2・3 人目のヘルパー(1 日の開始から 9~16h部分と 17~24hの部分)は事業所の管理コストが低くなることから単価を 5%下げる仕組みになった。

自立支援法として法制化されても、全国各地で重度の障害者の地域移行は進み、24 時間介護の必要な障害者の一人暮らしも増えている。そのたびに各市町村では最高 365 日・24 時間の介護を保障する時間数を出すなど、制度の改善が続いている。

日本の障害施策はこの 20 年ほどで大きく変わった。例えば、20 年前は、四国のある県庁所在地では平日昼限定で重度障害者でも、良い方で週 1~2 回☓2 時間しかヘルパー制度が受けられなかった。現在は、この市では、人工呼吸器利用の全身性障害者が毎日 24 時間以上の重度訪問介護の支給を受けて一人暮らしをしている。

最重度の障害者一人ひとりが全国各地で、地域でアパートを借りて普通に暮らしたいと考え、困難ながらもそれを実行してきたこと、また、その障害者に様々な支援をしてきた全国の障害者団体があり、それら当事者の度重なる要望、時には死にものぐるいの要求に真剣に向き合い、制度改善に取り組んできた行政・議員・運動などの関係者によって、日本の介護福祉制度は大きく変わったと言える。
しかし、未だ 24 時間保障がある市町村は全国 1,700 市町村のうち 1 割に過ぎず(都道府県単位では2018年にようやく、 47 都道府県中の全都道府県に 24 時間保障のある市町村が 1 箇所以上存在するようになった)、まだまだ多くの障害者や市町村担当者・地域の福祉関係者は、他地域でこういった制度が行われていることも知らない現状である。
(本記事を読まれる皆さんが全国各地の市町村で、そういった現場に出会った時に、適切な相談や情報面での援助を行っていただけることを期待する)。